「今ここに生きる」という言い方は、哲学や詩、宗教において繰り返し説かれる。禅などはとくに強調している。
「今ここ」について、ちょっと疑問に思ったことがあるので、自分の経験を踏まえて考えてみた。
「今ここ」こそが大切なのだ、という考えは、もっともに聞こえる。過去にとらわれず、先のことを心配せず、今を精いっぱい生きるべき、という意味では、その通りだと思う。
疑問に思ったのは、今ここだけで生きているのは、動物がそうではないか、と思ったからだ。動物は基本的に過去や未来を思うことはなく、本能や感覚に導かれて「今」を生きている。これは生物学的な「即時的な現在」への適応といえる。食べて寝て育てて危険から逃げて、などなど。だから、今ここを生きるのは、一面で動物的であるともいえる。
しかし、よく考えると、人間が語る「今ここ」とは別物であることがわかる。人間の場合、時間全体を自覚的に統合した上で、意識的に「今」を深めるという意味合いが強い。詩人は、「瞬間の永遠性」というだろう。仏教でも西洋哲学でも同様だ。
動物は、未来や死を意識せず、結果として「今」に生きている。人間は、未来や死を意識しているからこそ、「今ここをどう生きるか」が課題になる。
動物的な即時性が土台にあり、人間はそこに意識の光を当てることで、同じ「今」をより深く生きられるのだと思う。ただ「おいしい」と食べるのは動物的な今。しかし「この味わいは二度と戻らない」「ここに一緒にいる人と分かち合えるのは奇跡だ」と気づくと、それは精神的な「今ここ」になる。
動物的な即時性がなければ、意識的な「今ここ」も乾いたものになりがちだし、逆に意識がなければ、ただの反射的な生で終わってしまう。だから「どちらもある」と感じることは、「生命と意識の両方が動いている」と自覚している証拠なのかもしれない。
動物と人間の中間を生きていると思われるのが、認知症の人である。これは、理論を言っているのではなく、私の家族のことだ。いまは、かなり進んでいて、何事にも「即物的」になっている。ほとんどベッドの上で過ごし、食べて眠って、呼吸して「今ここ」を生きている。年ねん動物のように変わっていく様を見ることぐらい悲しいことはないが、まだ、生命が働いている、と思えば、耐えられるかもしれない。