鳥人間コンテストには、相反する二つの側面があるようにおもわれる。ひとつは、技術・記録・賞金と言った面で、もう一つはただひたすら打ち込む情熱と協働により、人と人との共同体を強く形成していく面だ。
一面には、工学的な創意工夫、航空力学の研究、素材の開発など、学術的・競技的に評価される成果がある。人力飛行の限界を押し広げる実験場としての意味もあり、合理性と効率性の追求が前面に現れる。
一方、それだけでは語れない魅力が、「ただひたすら打ち込む情熱」だ。寝る間も惜しんで設計図を描き、仲間と一緒に汗を流し、失敗しても再挑戦する姿勢。そこには純粋な「飛びたい」という願望や、仲間と夢を追う共同性がある。記録に届かなくても、落下してしまっても、そのプロセス自体が感動的だ。
ニュースなどでは、新記録達成とか優勝チームの紹介ばかり目に入ってくるが、私はこれらの記事にはあまり魅かれない。1位は15000m飛んだとか、最下位は17mだったとかの記録にもあまり関心がない。
しかし、離陸直後に湖に落ちてしまったチームの様子には、たいへん興味がある。みんな残念がって涙を流しているのだが、なぜか爽やかな晴れやかな印象をうける。これは一体どうしたことだろう?絆のようなものを感じるからだろうか。
鳥人間コンテストでは、「記録や技術」は一握りのチームだけが突出した成果を残せるが、「情熱」そのものは参加する誰もが共有できる、といった、二つの衝動ともいえるものがある。「結果」よりも「プロセスの熱」のほうが記憶に強く刻まれると思う。参加者も視聴者も。
鳥人間コンテストに限らず、量と質、技術と情熱、規制と自由などの二面性は、多くの人間活動に潜んでいると思われる。
教育でいえば、「量」は勉強時間の長さ、解いた問題数、読んだ本の数、「質」は、思索の深さ、理解の独自性、洞察の深まりといった具合だ。
芸術活動でいえば、「技術」面は、演奏技術、画法、発声法といった形式的な熟練度が考えられるし、「情熱」面は、表現に込められた感情、人生観、エネルギーと言ったことがあげられる。
産業・労働で見てみると、「効率」的な面は、生産性、スピード、コスト削減であり、「ゆとり」的な面は、創造の余地、休養、遊びなどだろうか。
日常の家事でも、「効率」でいえば、掃除や洗濯を短時間で済ませる工夫、まとめて行うなどで、「ゆとり」の面で見れば、ゆっくり片付けたり、香りや音楽を楽しみながら行う余裕があげられる。
このようになんでも二面性があるように思えてくるが、現代は、どの領域でも量的な面が優先されている。それはなぜなのだろう?
思いつくのは、
・企業や個人が利益や成長を測る指標として、量(生産量、販売数、アクセス数、データ量など)を重視する傾向があること。
・デジタル社会では、計測可能な量(クリック数、視聴時間、フォロワー数)が価値あるものとされていること。
・現代人は情報やタスクの量が多く、時間が有限であるため、少しでも多くこなすことが優先される社会になっていること。
などが考えられるが、質(深い理解、情熱、創造性)はすぐには数値化できず、評価されにくい、という性質にもかかわっているような気がする。長期的な幸福や創造性、持続可能性のため、質や情熱、ゆとりを意識的に回復させるには、どうしたらいいのだろうか?
長期的な視点での活動、内面の充実や他者と比べない自分軸、ゆとり、創造性、深さを意識的に作るといったことが考えられるが、それぞれが考えていくしかない世界だと思われる。早急に解決策を出したい気がしてくるが、そうするとこれは、片方の衝動へ行ってしまいそうだ。