
むかしむかし、大学で「エジプト考古学概論」を吉村作治先生や近藤二郎先生に教わった記憶がよみがえり、ツタンカーメンの展覧会を見に行ってきた。
若い時から様々な死生観に興味があったが、今でもそうだ。
ふれこみは、こうである。
「ツタンカーメンが埋葬された玄室や副葬品を美しく精緻に再現したスーパーレプリカと、高精細3Dスキャンデータという最新技術によって再現!」
王家の谷に降りていく臨場感があり、もうこれで、エジプトに行かなくてもいいや!と思うほど、忠実な玄室に驚いた。金色に輝く副葬品の数々にも目を見張り、黄金の厨子の巨大さにも圧倒された。
ツタンカーメンのマスクの両肩部分には、『死者の書』にある古代の呪文が神聖象形文字で刻印されているそうだが、私にはもうヒエログリフは読めないので、『エジプトの死者の書』という本を引っ張りだし、久しぶりに読んでみた。
『死者の書』には190ほどの呪文が書かれている。調べると次のような解説がされている。
“「死者の書」に記されている死後の世界への道程は険しいものであり、死者は悪霊や怪物に守られた一連の門や洞窟、丘を通過する必要があった。 ここに登場する死者を妨害する存在は、主に巨大な刃物で武装しており、典型的な例は頭部が動物の頭である人型であったり、様々な猛獣が組み合わされた、おぞましい外見のものであった。また、その名前も同様に「蛇に生きる者」や「血に踊る者」といった恐ろしいものだった。これらを退けるために「死者の書」の呪文が必要となり、これを唱えることでそれらを調伏させることが可能であった。一度、抑えられるとそれ以上の脅威はなく、むしろ死者の保護さえした。”
呪文を読んでみると、人智学で言われている死後の世界とよく似ていることに気づかされる。共通点は、“死者は冥界を旅し、多くの関門や試練を超えていく。”という点だ。「死んですぐ終わる」のではなく、死後に段階的な道程があるという点も共通する。
死者の書では、死者は冥界の神々の前に立ち、アヌビスが心臓を秤にかけ、マアト(真理・正義の女神の羽根)と釣り合うかどうかを判定される。人智学では、自らの行為が他者に与えた影響を、相手側の視点から経験し、次の生での課題として持ち帰る。エジプトでは「心臓の秤」での裁きが、人智学では「他者の視点から自分の行為を体験する」ことでの浄化にあたる。
死者の書の「心臓の秤量」では、虚偽を語る者は先に進めない。人智学の「境域の守護霊」は、自分が地上で培った思いや欲望をありのままに映し出し、魂に「自分自身の真実」を直視させる。虚飾やごまかしは通じない。
また、旅の通過点を守る存在がいることも似ている。
死者の書では、死者が冥界へ入る際、様々な門や関所を通過し、神々や守護霊的存在(たとえばアヌビス、マアトの秤の場面での神々)によって審判や問いかけを受ける。これらは「境界の番人」の役割を果たし、魂が無条件に進めないようにしている。
人智学でも、死後すぐに「境域(カーマ・ローカ)」を通る際、個人の欲望や地上的な執着を映し出す存在に出会い、その魂を試みる。シュタイナーはこれを「境域の守護霊」として語り、魂が霊界に正しく入れるかどうかを確かめる存在だとしている。
共通しているのは、「魂が次の領域に進む前に、自己と向き合わせる存在」が置かれている、という点だ。閻魔大王のようなものかもしれない。
なお、「おぞましい外見」の者は、人智学では自分自身のことだという認識をしている。チベットの死者の書でも、それを「恐れるな!」と何度も繰り返し説かれる。生前自分の中に元々あった忌まわしいものが、外部に見える、というのが死後の世界の特徴とされる。
さあ、少しは涼しくなったでしょうか?