新聞に中原中也の顔写真と『朝の歌』の直筆原稿が載っていたのがたいへん珍しく、また、懐かしく思ったので感想を書く。
下山静香さんの「おんがく×ブンガク」というコラムにあったのだが、彼女は「中也と音楽は、とても近い。(中略)オノマトペの響き、七五調や言葉の繰り返しが生み出すリズムは、声に出し、音の姿にしてほしいと語りかけているようだ。」と述べている。
中也は、百人一首のある歌を、チャイコフスキーの〈舟歌〉の旋律にのせて歌うのが好きだったとは、全く知らなかった。彼は、なんでも歌わずにはいられなかったそうである。私の学生時代には、中也とランボーと小林秀雄をよく読んだつもりだったが、全くの初耳だった。中也にとっては、詩がすなわち歌だったようだ。むしろ本当は、歌が先で、後で詩という文字にしていたと思わせるほどである。
歌とは何か、と頭で考えていた時、シュタイナーの『芸術の本質』という講演で、次のように話していたことを思い出した。天のある存在が語った、という想定のものである。
「概念を忌み嫌う感情のために、あなたは歌の翼に魂の最も内なる本質を載せて空中に飛び立たせ、その行為なしには生じなかったであろうものを、地球の周囲に刻印する可能性を与えるのだ。」
概念とは言い換えると知性であり、文字で表現される。中也の詩の一部にこうある。「町々はさやぎてありぬ/子等の声もつれてありぬ/しかはあれ/この魂はいかにとなるか?/うすらぎて/空となるか?」
こうやって文字を引用しても、例えば “魂” という概念が頭の中をよぎるだけである。地上の頭の中に刻印するのと、天に刻印するのとでは、文字通り天地ほど違う。歌うことによって、少しは “魂” に近づくことができるだろうか?
そういえば、私のギターの先生も、楽譜通りに演奏していると、「もっと歌って!」といつも言われる。