人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

「火の鳥」展を見て輪廻転生について考えたこと

先月開催されていた、手塚治虫「火の鳥」展を見に行ったのをきっかけに、輪廻転生について、あらためて調べてみると、実に色々な立場・見解・信念があることがわかる。

手塚治虫先生自身はもちろん、展覧会を企画・監修している生物学者の福岡伸一先生をはじめ、新聞に手塚塾を連載している哲学者の小川仁志先生、画家の横尾忠則さんなどのお考えを少したどってみたい。わたくしの知人の先生は、人類学の立場から『輪廻転生—〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』という、ずばりの本を書かれている。

また、輪廻転生そのものではないが、東大の死生学・応用倫理センターのアンケート調査によると、死後生を信じない人と、信じる人は大きく二分されており、死生観を一つに代表させるこことなく、その多元性を認識する姿勢が大切である、と論じている。

先生方は、輪廻転生やその考え方について、様々な視点からご発言をされていた。

福岡伸一先生は、「『火の鳥』にあるのは、生命が常に姿と形を変えながら、次々と受け継がれていくという一種、輪廻転生の生命観である」と言い、「これはエントロピー増大の法則に抗い続けている動的平衡であり、私の生命観とも響きあう。」とおっしゃることから始めている。
そして、「生物には非生物にはない特別な力が働いているという思想は危うい思考であり、現代の科学的達成を否定し、スピリチュアル(霊的)な概念に結びつく危険性がある。」とも明言している。そしてまた、「生命現象のありようは、機械論・唯物論だけで十分に説明できていず、ここに『火の鳥』が再読されるべき現代的な意味がある。」と結んでいる。なお、横尾さんとの対談では、横尾さんが「火の鳥というのは、魂の化身と考えていいんじゃないですかね。」の発言に応えて、「ええ、その通りですよね。」と言っている。

これらのご発言を読んで、ちょっと戸惑ってしまったのだが、福岡先生は、本当は何を言いたいのだろうか?火の鳥には、今の時代にとって大変意味がある、でも霊的な概念は危険性がある、という言い方は、中立性を保つ独特な言い方だと思う。

小川先生は、「『火の鳥』は、私たちの発想をはるかに超えた、循環する歴史を描いている。そんな壮大な世界と時間を考えれば、自分の人生のとらえ方も変わるのではないか。もしかしたら私たちの悩みの多くは、歴史や社会、人生をこうだと一つに決めつけるところから生じているのかもしれません。」とおっしゃっている。私も、何事も一つのことだけを深掘りするのは、文字通り一面的になってしまう危険性を感じる。科学でもスピリチュアル(霊的)でも同じことが言えると思う。

横尾先生は、単純明快だ。こんな発言からそのことがよくわかる。「やっぱり前世や、さらにもっと前の体験、アカシックレコード(宇宙誕生以来のすべての事象、想念、感情などが記録されているという世界記憶の概念)を導入させないと、本当の創造って生まれないんですよ。」横尾先生は昔から、死後の世界の実在を信じきっており、それをテーマにした小説まで書き、泉鏡花文学賞をとっている。幻想文学と思われたのだろう

最後に、手塚治虫先生ご自身は、輪廻転生について、本当のところ、どのように考えていたのだろうか?壮大な創作として『火の鳥』を描いたのか、それとも、転生を信じていたのか、作品や発言を読んでみても、謎が残るが、印象的ないくつかの言葉をたどってみた。

「宇宙にみなぎる生命は、われわれが考えおよぶ範囲の具体的なものではなく、もっと巨大なある支配力の一部ではないか、という気がし、この節理のもとでせい一ぱい生きていく生き物たちの賛歌を、「火の鳥」でうたいあげようと思いました。」
「ぼくは、霊魂不滅説そのものは信じませんが、霊のようなものは確かにあって…いや……霊ということばがおかしいのかもしれない 何か人間の想像できないエネルギーが生き物という有機物質にだけ吸収されて……それが「生きる」という現象になるのかもしれないと……子ども心に思いました。」
最後には、「ぼくのデタラメな空想だ」とも言っているが、心底自分で“空想”だと思っていたのかどうかは、本当にわからない。霊魂や輪廻転生については、わからないことだらけだが、何となくそれに興味を持っている人が増えているような気もする。アニメや漫画で「異世界転生・転移」ものがヒットし続けているのは、単に社会の生きづらさを反映しただけのものだろうか?