人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

人の中に住んでいる鬼について

深大寺で元三大師像を特別開帳しているというので、拝観に行ってきた。元三大師は今から1000年以上前の大僧正である。角大師とも言われ、平安の都で疫病が流行したとき、鏡の前で瞑想すると、鏡の中の姿が鬼に変わったという伝説があり、弟子がその鬼の姿を書き写したものが角大師と呼ばれ、そのお札は降魔札と呼ばれて、あらゆる災厄を払う魔除けとなったそうだ。

高さ2mくらいある大きな像で、大変おそろしい、厳しいお顔をされいていた。今までたくさんの仏像や僧侶の像を見てきたが、こんなに眼光が鋭いのは初めてだった。暗黒をのぞき込むような底知れぬ目をされている。

鬼となった僧という話はほかに聞いたことがないので、大変興味がわいた。いったいなぜ鬼に変わったのだろうかと、自分なりに考えてみた。不動明王などの忿怒尊にはよく出会い、悪を懲らしめるためにこんなに怒っているのだ、と説明されることが多い。

この鬼は、人の中に住んでいる鬼をそのまま映し出しているのではなかろうか? 「自分の一部は鬼である」ことを自覚させるための、密教の修行があるようだが、単に貪瞋痴の煩悩が積もってくると鬼のような心になる、というのだったら、どこか単純な気がする。

忿怒の表情は、自分が目を背けてきた内面を直視させるものである、という見方もできる。外の鬼を怖れるよりも、自分の中に潜む鬼と向き合えという導き。それを「忿怒」という智慧と慈悲の形で表現している、というとらえ方だ。

屋根にある鬼瓦や玄関などに置く鬼面は、外から入ってくる魔的なものを追い払うのではなく、それを見ることによって、自分の中の魔的なものを自覚できるようにする働きをしていると私は思う。

人智学でも、自分の中の悪に無自覚でいることは、まさに“最悪”なことを招く、という認識をする。

瞑想では、「私の中の鬼は、どんな姿をしているだろう?」、「お前はなぜ、私の中にいるのか?」と心の中で問うらしいが、自己認識のためのひとつの方法として、とてもよいやり方だと思う。

深大寺では、境内のいろいろなところに「ツノちゃん」という角大師のキャラが見受けられた。私の中にいる鬼もこんなにカワイイ存在だったらいいのに、と思ってしまった。