人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

復活祭に想うこと

私は、キリスト教徒ではなく、ほかのどんな宗教・宗派にも属していないが、聖書やキリスト教の歴史などを読むと、「復活」ということは、人間にとってどういう意味を持つのかを考えることに、興味がわいてくる。
 イエスという人物が十字架にかけられて処刑され、その後、その弟子たちは「イエスは復活した」と主張し、それが当時のユダヤ教社会やローマ帝国で急速に広まったのは、歴史的事実である。「主張する」ということは、心的事実なので、それを嘘と言って否定することは現代の科学(心理学)の視点からみても、不合理である。弟子たちが、そう信じるに足る何らかのリアルな経験をしたことは確かなことに思える。
 あくまで解釈やとらえ方になってしまうが、復活を「絶望(死)の後にも、新たな命があるというメッセージとして受け取り、春に自然が甦るように、人間の中にも再生する力がある。」と受け取れば、こんな希望の物語はない。歴史を通じて、復活の信仰が多くの人の人生を希望に変え、現代でも、絶望の中から立ち直る力となっているのを否定する人はいないだろう。「信じる・信じない」の世界ではないような気がする。人はいつでも「生きなおす」ことができる、というとらえ方をすれば、これほどの力強いことはないと思う。
 ところで、思い出したのだが、一昨年、『生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』でキリスト像を確かに見た。釈迦十大弟子は知っていたが、キリストを彫っていたとは知らなかった。棟方がキリストをどの程度想っていたのか、あるいは信じていたのかは、わからないが、福音書を読んで感じた「熱」や「いのり」が苦しみの後の美しさで表わされていた。そのキリスト像は、まるで普通の人のようにも見えた。神々しさというよりは、「弱者が起き上がる」といった印象を受けたのを覚えている。キリストの復活も、特別な奇跡というより、「日々の祈りの中にある生き直し」のような感じ。そして、力強さ。作品は、ネットですぐにみられるので、ぜひご覧になってみたらいかがでしょうか。