人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

「文学模擬裁判」に意義あり!に異議あり!

最近の新聞記事に“文学作品を題材にした文学模擬裁判として、仮想空間の中で高校生が法廷闘争をするメタバース法廷が完成した”とあり、驚いてしまった。

今回取り上げられている教材は、芥川龍之介の「羅生門」である。羅生門の楼上で被害者の女性に、太刀を突きつけて着物(1600円相当)を奪い取った事件に関して、弁護側と検察側とがそれぞれ理由、罪状を述べ、最後には裁判官が判決を言い渡す、という流れになっている。

反対尋問をしたある高校生は、「言葉の伝え方次第で、有罪色が強かった裁判を無罪にできる楽しさがあった」と語っている。

この文学模擬裁判は、某大学の教授が考案したとのことだが、「文学も裁判も言葉の世界。文学を法的思考力を手段として読み解くことで、人間へのより深いまなざしを養える」とおっしゃっているが、はたしてそうだろうか?

確かに両者とも言葉を使う。しかし、法的思考力としての言葉と、文学の芸術性・精神性を表現する言葉は、まったく違う印象を与える。文学には「行間」がある。“深い人間へのまなざし”を勘違いしているのではないだろうか?

今回は、とくにそれが言える。なぜなら題材が「羅生門」だからだ。人間の業や意識の奥底にある悪について、“法的”に判断するたぐいの世界ではないことは、明らかなはずなのに、よりによってなぜこのような深い作品を選んだのだろうか? 芥川が生きていたら、いったいなんと言っただろう?どうせなら勧善懲悪の三文小説にしたほうがまだましだったのではなかろうか?

人間のすることは、有罪か無罪かの二択で、あるいは量刑の程度で決められるような単純なものではないと思う。法と精神の世界を同じ土俵で扱うことの危険性さえ感じた。