人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

日本人智学協会の代表だった高橋巖先生のこと

今週のお題「思い出の先生」
高橋巖先生との出会いは、書店から始まった。目的の本があるわけでもなく、ふらっと立ち寄って、何となく書店内を歩いていたら、「ここで止まれ!」と言われた気がして、立ち止まり、目の前に積まれていたのが『アカシャ年代記』という本だった。
それがシュタイナーの著作で高橋先生訳の本に初めて会った瞬間だった。なんと、幻想文学大系の中の一冊だった。読んでみると、太古からの人類と地球の歴史が書かれており、何のことだかさっぱりわからなかった覚えがある。でも、妙に心が魅かれるものがあった。
それ以来、シュタイナーの高橋先生による訳本を中心として、日本語で読めるものはすべて目を通しているのだが、あまりに広範囲のことを扱っているので、なかなか身についているとは言えない。
個人的な読書とは別に、横浜・吉祥寺・京都で行っていた読書会に参加するようになり、先生のお人柄に接するたび、尊敬の念が深まっていった。質問にも丁寧に答えてくださったり、感想文を紹介していただけたりしたことを本当に感謝している。
先生のお言葉はすべて、限りなく私の人生に力を与えてくれたが、特に印象深かった言葉を残しておきたい。(全部書くと本になってしまうので…)
ある日、講義の途中で、ご持参した木の枝に二つの木の実がついているものを教室で回覧したときのものだ。「この寄り添う姿をよく御覧なさい。ほら、支えあっているでしょう。」短い言葉だったが、私には深く深くささるものがあった。
もう一つだけ、ご紹介したい。私はクラシックギターを習っているのだが、ギターの先生によく「自分勝手に弾くんじゃない!」と怒られる。「作曲者の意図に奉仕するように表現しなさい」と言われたことを、高橋先生に話したら、これもたった一言、「それはいい先生ですね、よかったですね。」その一言をいただいただけで、うれしかったことを覚えている。
去年の3月30日に亡くなる前日は、横浜で講義にいらっしゃったが、ほとんど声が出ないのが痛々しかった。翌日、京都の人智学のメンバー向けにお話をされる前に、講義の原稿に目を通しながら、座したまま旅立ったと聞いている。もうすぐ一年が経つが、今頃先生はどうしているのだろう?