新聞のコラムに「AI化する宗教」とあったので、少し疑問を抱いた。その概要は、「ブッダボットプラス」という名の生成AIの英語版が、ブータンの仏教界に導入されることに“驚いた”というものだ。これを書いた方は、「人は機械に教え導かれ得るのか。」と問うている。
なぜ、驚いたのだろうか?私なりに想像してみると、これは、宗教と宗教学の違いの問題で、宗教学が宗教にどれだけ迫れるか、という問題でもある。「AI化する宗教学」なら、とてもよくわかる。宗教学は、客観的に研究した結果を文字やデータに残せるものだからだ。たしかに、チベットのお坊さんも経典を覚え理解する必要はあるだろう。宗教的な疑問にもすぐに賢い答えが返ってくるので、利便性を感じることだろうとは思う。一方、宗教は信じること自体に関わるものなので、データ化は難しい。信じることを教えることはできない。うまい教え方の問題ではなく、それは本人の問題である。
宗教学には、教義や経典の研究から哲学や形而上学、実存主義や倫理学、脳神経科学、文化人類学的アプローチなどが考えられる。
一方で、宗教は“聖なる何か”、“祈り”、“魂”などに結び付くもので、これらを客観的に分析することはできない類のものだ。たとえ、それらをAIが巧みに説明し、言葉化しても、それはあくまで文字データ以上のものではない。