ボクサーの文化人類学者と、身体論に造詣の深い禅僧が語り合うという催しに参加してきた。紹介文の一部の文だけ抜粋すると、人類学者の先生は、「~拳で殴るのは、直立二足歩行で手が自由になったその身体的特性ゆえに、きわめて人間的な暴力である。~」との前口上、禅僧の人は「~禅の歴史にも師が弟子を殴るという物騒な指導方法が時折見られる。~」と案内に書かれていた。どんな話し合いになるのかと、ものすごく興味が湧き、大きなお寺の書院まで足を運んだ。
結果的には、“身体”の観点から、ボクシングと仏教の共通点や相違点が明確になったというものではなく、それぞれのお立場で経験を語られる、という印象だったので、対談の内容ではなく、この対談に刺激を受けて私個人が連想したことを書いてみたい。
この対談を振り返りながら二つの話を思い出した。ひとつは、神話学者が言ったことだったと思うが、ある民族では、子供が大人になるための儀式として、「ライオン狩り」をさせる、という話だ。通過儀礼のことだ。この言わば“外的な試練”をきっかけに、自分がそれまで生きてきた世界では意識できなかったものに出会うことになる。内的には、「勇気の養成」と言えるかもしれない。これは、ひょっとしたらボクシングにも言えることなんじゃないかな、と思った。ボクシングのようなスポーツは、強い集中力、自己制御、そして困難を乗り越える力(自己克服)を養う場なので、身体的な意味でも、精神的な意味でも文字通り、“打たれ強く”なれる。その意味では、仏教の修行と同じなのかもしれない。仏教では、避けられない様々な苦しみをどのように理解し、乗り越えるかが大きなテーマのひとつだ。ボクシングも同様に、肉体的な痛みや疲労、敗北の悔しさを乗り越えることが求められる。この「苦しみの克服」と「成長」をテーマにしているという点が、似ていなくもない。
禅では「今この瞬間」に集中する「念」や「瞑想」が重要とされるように、ボクシングも、試合の最中は過去の失敗や未来の不安にとらわれず、瞬間瞬間に集中しなければならない。流れに身を任せ、今起きていることに完全に意識を向けるという点で、仏教の教えと似ている。人類学の先生も、「相手がどう出てくるか、体が予想する」というようなことをおっしゃっていた。「流れにうまく身を任せる」ことができないと、やられてしまう、ともおっしゃっていた。ご著書では、「ボクシングの試合では、相手に打撃を与えるだけでなく、相手の心を読み、逆に自分の心を支えることが必要」とも書かれている。ボクシングって暴力的に見える精神修行だな、と感じた。
もう一つ思い出したのは、吉本ばななさんがおっしゃっていた「意外なことが起こることを生活(人生)に仕込んでみる」、「予想がつかないことが起こると、生きる本能がよみがえる」という言葉だ。ボクシングの試合では、相手どころか自分がどうでるのか、予想がつかない、という。相手も自分も一秒たりとも静止せず、細かく動き、変化しているそうだ。
何事も鵜吞みにせず、自分で体験する大切さを感じたので、ボクササイズの教室にまず通ってみようかと思っている。