夕刊に「死と向き合う人々」の見出しを見つけて、精読してしまった。世界の葬送というタイトルもついており、ますます興味を持った。遺灰をロケットに乗せる「宇宙葬」などの新たな潮流も書かれており、世界の様々な葬送の仕方を簡略に比べていたが、中でも関心を引いたのが、メキシコの例である。
その小見出しは、「陽気な別れ」とあり、“服装は自由で、楽器を演奏しながら埋葬することも。” などとある。この“陽気な”という言葉に、注目してしまった。メキシコの葬儀が派手な理由は、どうも[死者を祝う]という文化があるらしい。調べると、<メキシコでは死後の世界が続いていると信じられており、死者を弔うことは単なる悲しみの表現ではなく、亡くなった人の人生を祝う儀式とされています。>などと書いてある。❛亡くなった人の人生を祝う❜という表現は、何を言いたいのだろうか?また、そんなことがあり得るのだろうか?悲しいのに祝うとは!
調べてみると、メキシコの文化の根底には、アステカやマヤなどの古代文明の信仰が深く影響しているようだ。「アステカ文明では死後、魂は“ミクトラン”という死者の世界へと向かうと考えられており、死後の旅は過酷で、死者は冥界を通り抜けるために何日もかかるとされていた。この信仰では、死後も魂は存在し、家族や先祖との繋がりが続いていると信じられていた。」などという記述もある。
なんだ、これは日本(の仏教)と変わらないじゃないか、と思い、メキシコに近親感を持ってしまった。また、アステカの信仰では、死者は祝福された世界である「太陽の世界」などに導かれることがあり、これが後のメキシコの死後観に影響を与えた、ともある。これなどは、古代エジプトの死生観をも思わせる。太陽神のもとに行けるなら、お祝いしなくっちゃ、という気持ちもうなずける。
メキシコ文化において、死は終わりではなく、むしろ新たな始まりの一環と考えられることが多い。死者の魂は永遠に生き続けており、故人の存在は家族や社会につながっていると考えられている。このような信念は、亡くなった人々を敬い、祝福し、共に過ごすことを大切に思う、人間にとって当然の思いなのかもしれない。
日本で、お彼岸やお盆に、亡くなっても“生きている”人に語りかけるのと、全く一緒だなと感じた。なお、人智学でも同じ考え方をする。