江戸の元禄時代に『養生訓』が流行ったということを知った。養生訓(1712年)は福岡藩の儒学者、貝原益軒によって書かれた、養生(健康法)についての指南書である。普通の人向けに「人としてどう生きるべきか、どう在るべきか」というところが興味を引くところだ。
一番印象的だったのは、「老いには一日を十日とし、十日を一月とし、月を年としておもひいそぐべし」の文句だ。こんなことも言っている。
「世の中の人のありさまが自分の考えに合っていなくても、凡人たちのすることだから、それも仕方のないことだと思って、(中略)人の過ちを寛大に許し、とがめてはならない。怒ったり、恨んだりしてもいけない。また、自分が幸福でなかったり、人が自分に対して理にかなわぬことを押しつけてくることも、浮世の習いはこんなものだと思って、天命として甘んじて受け入れ、憂えてはならない。」
自分が凡人であることを、ズバリ見抜かれているような言葉ばかりである。
最も、突き刺さってきたのは、「一日を十日とし~」の言葉である。年を取ると時間が短く感じるのは、その世代の方にはわかると思うが、それは一体なぜなのだろうか? 若いころは時間が長く感じられ、未来への期待や展望が広がっていたように思うが、先があまりなくなってくると、目の前の「現在」だけが感じられるため、時間がより速く流れているように思うのだろうか?
ちょっと調べてみたら、“ジャネーの法則”というものがあることが分かった。19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案(1928年公表)したもので、「主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く感じられるという現象を心理学的に説明したもの」だそうだ。それによると、「時間の経過の早さ」は、「年齢に比例して加速する」と言われているようだ。
その理論は、ややこしいのだが、
1歳のときの一年は、全人生の1/1
2歳のときの一年は、全人生の1/2
5歳のときの一年は、全人生の1/5
50歳のときの一年は、全人生の1/50
従って、5歳の人にとっての一日は、50歳の人にとっての10日にあたることとなります、という論理となる。今一つ、ピンとこないのだが、「10日にあたる」と言ったところが、なんと200年以上前の養生訓で指摘されていたことに不思議なことに合致する。貝原益軒は、何をとらえていたのか、想像がつかない。
ちなみに人智学では、時間感覚とリズム感覚は、人間の生命体が関わっており、年老いるとそれらの感覚が鈍くなり、時間を言わば“薄く”しか感じられない、といった趣旨のことを言っていたと思う。逆に生命体が活発だと時間を濃く感じる、というわけだ。老いても、活発さを忘れないようにしたいものだが…。
「一日を十日とする」ための、ばからしい方法を考えてみた。十倍速く時間が流れるのだから、例えば、朝7時に起きたら月曜日で、9時にはもう火曜日と思ってはどうだろうか?8時になったら、「今日は何を思い、何をしたかな」と振り返るのである。“朝食を新聞やテレビを見ずに、普段の食事を本当に味わってみた”などでも全然かまわない。メディアの記事の中にある一つの「言葉」を見つけて、それについて振り返って考えてみた、でもかまわない。“一日”が充実してこないだろうか? こないかな?
最期に思いだした詩をひとつ。
ヘルマン・ヘッセの「段階」の詩の中の一節、「一つの生活圏になじみそこを安住の地とするや/弛緩はたちまちわれらを襲う/人の心を萎えしめるこの慣れをまぬがれるものは/ひとえに旅へと出立への心がまえあるものだけであろう」