円空仏の展覧会に行ってきた。一度に70点を超える像を見たのは初めである。ここでは円空さんの思想や信仰や歌を直接述べるのではなく、「両面宿儺(りょうめんすくな)」の像に限って記すことにする。その像は会場内でも大人気で、売店のポストカードも両面宿儺だけ売り切れていた。正面に微笑んでいるような顔を刻み、その横にやや小さく怒ったように見える顔を彫っている。いやむしろ、彫るというより、何かに手を動かされているうちに、木の中から、二柱の存在が現れ出た、といった感がある。この像に注目が集まるのは、ただ珍しい像だということだけではなさそうな気がした。
両面宿儺は、『日本書紀』に登場する人?だそうで、名を宿儺といい、一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。人民から略奪し苦しめることを楽しみとしていたため、仁徳天皇が派遣した武振熊に討たれたという。
私は両面宿儺を「善悪の両面を備えた」存在として考えてみた。そのような存在を世界の神話や伝説に広げて探してみると、実に多くのものがいることがわかった。例えば、ヒンドゥー教のシヴァ神は破壊的な力を持ちながらも、同時に慈悲の象徴でもあり、善悪の両面を併せ持っている。キリスト教のルシファーの堕落の物語は、善悪の選択に関する深い問いが含まれている気がする。また、インド神話に登場する阿修羅像は、まさに善悪の両面を持つ存在の象徴として興味深い。戦いと怒りを象徴する力強いものとして描かれるが、同時に慈悲や精神的な成長を求める側面もある。“悪から善へと精神的な成長を求める”―ここが重要な点だと思う。阿修羅の顔や姿勢は、怒りや戦い、または深い瞑想にふける姿形など、自分の中のさまざまな感情を高揚させるところがある。
神話の中だけでなく、この両面性が現代の私(たち)の中にも厳としてあるからこそ、興味をひかれるのではないだろうか?バガバッド・ギーターに出てくるアルジュナのように、欲望や怒りを抑えきれない一方で、これらの感情がどのように解消され、成長と悟りに繋がるのかという“自己克服や内面的な変革”を求めるテーマに強く心惹かれる。シュタイナーの言葉を今思い出したので、記しておきたい。「悪を通ってきていない善など、大した善ではありません。」やはり、成長するには強い試練が必要なのだろうか? いつか別の視点に立って、ニーチェの『善悪の彼岸』を考えてみたい。